妄言つらつら – 宮崎駿と高畑勲と庵野秀明

雑記

はじめに断っておきますが、素人の妄言です。
根拠その他ガバガバで思いついたことを書いていきます。

テーマはアンチファンタジー

まぁ最近良く岡田斗司夫のユーチューブなんかを見て色々毒されているわけなんですがw
(この時点で何人か回れ右しそうですが、気にせず続けます)
高畑勲が平成狸合戦ぽんぽこでやったのは『アンチファンタジー』であり『アンチ宮崎駿』だというわけですね。
たしかにそういう目で見るとそういうふうにも見えてくるわけです。
宮崎駿の作品は現実にはない幻想的な景色を見せて、自然の美しさを表現する。
でもそれはあくまでファンタジーであり、あんな景色は宮崎駿のアニメの中でしか見れないウソモノだというわけだ。

本当に自然の美しさを伝えたいのであれば、もっと身近でリアルな自然を描かなければならないはずだと。

たしかにナウシカを見た後で、現実を見るとどう考えてもナウシカの風景のほうが美しい
あれに匹敵できる景色なんて地球上では限られている。

つまり宮崎駿作品は人工甘味料であるのだと、
人工の甘味料が我々の味覚を麻痺させてしまうように、行き過ぎたファンタジーは美的感覚を麻痺させてしまう。

だから高畑勲はアンチファンタジー、アンチ宮崎駿な作品を作ったのだというわけだ。

そして現実に目を向けてみると、高畑勲が危惧していたように、アニメの中だけに居場所を見つけ現実を直視したくないというアニメファンが蔓延してしまった。

世の中の大多数のアニメはファンタジーだ、
現実よりも刺激的で、
現実よりも可愛い女の子や、カッコイイ男の子
現実よりも悲劇的な運命
現実よりもハッピーな世界

観客は自分が望む世界に身を置けるようになった。
そこから離れることを嫌うようになった。

もちろんこれは宮崎駿自身も危惧してはいたと思う。
トトロのとき宮崎駿はこどもに外で遊んでほしいとの願いを込めて作った。
でも結果は家でトトロのビデオを見る子供が増えただけだ。

おそらく宮崎駿は高畑勲に自分を否定してほしかったのだろう
自分は売れる作品を作れるが、それが子どもたちを家にこもらせることになっている現実に苦しんでいたのかもしれない
だからこそ高畑勲が必要だった。

だが高畑勲は逝ってしまった。

その穴を埋めるのは僕は庵野秀明なのではないかと思っている。
彼は高畑勲とはスタイルが違うが、エヴァンゲリオンにおいて空想からの脱却を描いてきた。

アニメと言う名の人工甘味料に依存してしまった人たちを、救い出そうとした。
いわば宮崎駿とその影響を受けた日本のアニメ業界の罪を清算しようとしたのではないか。

シン・エヴァでも表現こそ変わったが、メッセージはブレていなかった。
やはり一度アニメ依存に陥った人たちを、現実に連れ戻したいのだ。

シン・ゴジラだってそうだ
わかりやすいように「現実 対 虚構」とキャッチコピーを使い
虚構(=ゴジラ)にボロボロにされる日本を描いた

宮崎駿が庵野秀明を可愛がる理由というのは、そのへんに理由があるのではないかと思っている。
高畑勲が成し遂げられなかったことを庵野秀明に期待しているのではないかと。

つまりアンチ宮崎駿。
アンチファンタジー。

自身が抱くジレンマ
自分の作品またはその影響を受けた数々のアニメ作品によって、現実に戻りたくなくなってしまった人たち
これを正面切って否定してくれる存在を宮崎駿は必要としてるのではないか。

―っていう妄想。
以上!

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